茂倉岳避難小屋②
8月初旬。同じ山岳部の仲間だったNとTは、夏休みを利用してT川岳に来ていた。
M太郎本谷をつめ上がり、ふたりはその日、S岳避難小屋で一泊する予定だった。まだ明るい午後3時すぎ。夕食の準備だけ済ました彼らは笹の茂る小屋横の日影にそれぞれマットを敷いて寝転んで、青く霞む山々を無言で眺めながら、うとうとしていた。
ふっと風が凪いだ。かさかさと鳴っていた笹の葉音が止んだ。この世の全ての音が途絶えたように無音になった次の瞬間。カ・・ン・・・カン・・・カン、カン、と鐘の鳴るような音が近づいてきたと思う間もなく「らぁーく!!!らぁーく!!」という落石を告げる悲痛な金切り声が耳を突き抜けた。ゴオォ・・・という音のない轟音に伴う風が身体をかすめ、青い何かが視界の端を染めた。
Nは驚いて目を開けた。
目に飛び込んできたのは雲ひとつなく晴れ渡った青空だった。耳元では、サラサラ・・・サラサラ、と笹が風に涼しげな葉音をたてていた。滴るほどの汗が涼やかな風にひやりとした感触だった。小屋の日影に寝ていたため暑くはない。不快な汗だった。心臓も怖いほど早く鼓動している。Nは起き上がりながら額の汗を腕でぬぐった。
ふと横を見ると、口を半開きに両目を大きく見開いたまま、汗びっしょりでマットに横たわるTの姿があった。
Nは、まさかと思い「聞いたのか」とTに言うと「あう」と半開きの口で声だけ絞り出し、しばらくしてから大きく深呼吸し疲れたように起き上がった。
「おいT、おまえも聞いたのか?」とN。Tはうなずきながら「ら・・・く」と小声で呟いた。
二人は耳をすましたが、聞こえるのは笹の葉音ばかりの、いたって安穏と穏やかな山の日常だった。ぽかぽかと気持ちのいいS岳避難小屋の横で聞こえたのは、たしかに「らく」という叫び声だった。その声は、半ば金切り声に近い、裏返った叫びだった。そして、それはまるで自分が叫んでいるように思えた。
小屋横でのんきに昼寝している二人をからかおうと、そんな声をあげて逃げたのかもしれないと、ふたりは避難小屋を調べてはみたが、人の気配はまったくなかった。
重く寒々しい気分はこの後ずっと消えることはなく、またそんな気分が身体に影響したものか、手と身体がいやに冷えるようになってしまった。シュラフに入っても嫌に冷える。歩いて汗はかくけれど、冷や汗のような、なんとも形容しがたい嫌な暑さと汗だった。
二人はそんな気分を抱えたまま下山し、樹林帯まで高度を下げたときだった。下から五十代のグループがにぎやかに登ってきた。グループは男女6名ほどの混成部隊で、声高に話し、笑いながら元気良く登ってくる。ずいぶん遠から聞こえる声に、熊鈴より威力はあるな、と二人は笑ってしまった。
ふたりとグループはの距離は数メートルに近づいた。二人は山側によけてすれ違おうとした。しかし、ここで奇妙なことが起こった。グループは、まるでふたりのことが目に入らないかのように道の真ん中を登ってくるではないか。先頭のリーダーらしき男性は、時々大声で冗談を言いつつも、しっかりと前を見ているのに、二人のことを見ようともしていない。
そして、とうとうすれ違いざまに半身がぶつかってしまったのだった。ここからも、実に奇妙だった。ぶつかった瞬間、グループのリーダーは「あっ」と驚いたように飛び退くと、目をひん剥いて二人をじっと見つめたのだった。
その態度はリーダーばかりでなく、その後に続いていたメンバーも同様で、彼らは気付かずに当たってしまったことを詫びると、「おかしい、おかしい」と首をひねり、時々振り返りながら登っていった。
この山行から帰ったN先輩は高校山岳部の部室に顔を出すと、不思議なことがあったんだよ、と以上のようなことをボクら後輩に話してくれた。そしてこの2週間後のこと。N先輩はTさんとともに再びT川岳にクライミングに向い、落石によって両名ともに命を落としてしまった。
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