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美ヶ原高原

美ヶ原高原

梅雨に入るか入らないかの頃である。
たまたま有給休暇が取れたので、A君は夜行列車に飛び乗った。
仕事の進行次第、ということで、実際に休暇がとれるかどうかはギリギリまで分からなかったため、緻密な計画が必要なハードな山は、はじめから諦めていた。
「忙しくストレスもたまってたし、ちょっと息抜きになればと思って、比較的穏やかな松本の美ヶ原に登ることにしたんです。
2000メートルくらいの、まあ初心者級の山で、地元の小学生がよく林間学校に使う高原です」
A君は語ります。
気晴らしにはちょうどいいコースだった。
大学生時代から何回も登っていて、地形も知り尽くしていた。
「ああ、それと」
と、A君は付け足した。
「もう一つ、実は不純な動機があったんです……」
A君には、当時、付き合っていた彼女がいなかった。
おまけに男性ばかりの職場で、正直言ってくさっているところに、仕事が忙しくて女の子と知り合う機会さえなかったのである。
「美ヶ原に三城牧場という、牛がたくさん放牧してあって、そこに山小屋があるんですけど、ああそうだ、あの山小屋のそばにドラム缶風呂があったな、って、ぱっと閃いちゃったんですよね。いや……そのドラム缶風呂によく、小屋にバイトに来ている女の子が入ってたことを思い出しまして。
美ヶ原=ドラム缶風呂=女の子、っていうのがパアーッと頭に……」
A君は、ドラム缶風呂のまだ見ぬ美女を思い描いて夜汽車に乗ったのである。
しかしその不純な動機こそ、恐怖体験の元凶となってしまったのだ。
列車は明け方近く松本に到着し、A君はバスに乗って登山口で降りると、そのまま休まずに歩き出した。
「ドラム缶風呂が俺を呼んでたんですよ。もう食事をとらなくても平気でしたから。いや、大した山じゃないっていう気がやっぱりあったんでしょうね」
順調に登山したA君は、夕方前、まだ陽が高いうちに目的の山小屋がある三城牧場に到着した。
6月だというのに気温の高い高原は、夏には青々とした緑の海になるはずの牧草も、まだまばらだった。
藁のような枯れ草の間から岩肌がのぞき、それでも牛の放牧が始まっていて、白と黒のツートーンカラーの牛たちが、点々と見えていた。
ただでさえ変わりやすい山の天気だが、
梅雨時のためしきりにガス(霧)が巻き、時々霧雨が頬を濡らした。
「そろそろ山小屋が見えてもいい頃だけど……」
A君はリュックを下ろしてあたりを見渡した。
この高原には山小屋のほかに、宿泊所もあった。が、A君は一応、懐中電灯やテント、ラジオなど、リュックの中にはいつもと同じように、登山に必要な七つ道具を入れてきていた。
雨が止み、少しもやっていた霧が晴れてみると、目的の山小屋が、目の前の斜面の上の方に見えていた。
ドラム缶風呂も山小屋の脇にあるはずだった。
やった!とA君は思った。
「確か、もう少し下のほうにキャンプ場があったんですが、不純な目的があったから出来るだけドラム缶風呂(山小屋)のそばで1泊するつもりでいたんです。でも、いくらなんでも、風呂のすぐ隣にテントを張るわけにもいかないので、もう少し近づいたあたりに張ろうと思って……」
A君は、山小屋まで15分くらい、とおぼしき岩肌に接する斜面にテントを張った。
テントからは山小屋がけっこう近くに見える場所だった。
時計を見ると、山小屋の夕食までにはまだ時間がある。なにしろ、連日徹夜同然で仕事をこなし、夜行列車の中で少し仮眠を
とったほかはゆっくり休んでもいなかった。A君は寝袋を取り出すと、そのまま泥のように寝入ってしまった。
夕食時には起きて、山小屋で食事をとるつもりだったのだ。



……ガサガサガサ……
どのくらい眠ったのだらう。
A君は、ガサガサガサというテントを揺らす
風のような音で目を覚ました。
気がつくと日にが暮れていて、テントをの中はすでに真っ暗である。
「しまった。食いっぱぐれた!」
飛び起きて、手探りで懐中電灯を点けて腕時計を見ると、もう9時を回っている。
山小屋の夕食の時間はとっくに過ぎている。
あわてて外に出て、山小屋があるはずの方向を眺めてみたが、当然真っ暗で窓の灯火も消えていた。
A君は寝過ごしたばかりに、その日の夕食を自分で作らなければならなくなってしまった。
山小屋に行けば水道があるのだが、歩けば
15分くらいはかかる。
そこまで登っていって水をくんできて、湯を沸かしてインスタントラーメンを作る、という気力が、もうその夜のA君には残っていなかった。
―まぁいいか。このまま眠ったとしても、どうせ朝まで寝ちゃうだろうし。そうすれば空腹も感じずに済むだろう―
A君は懐中電灯を消すと、そのまままた寝袋にもぐり込んだ。ほとんどふて寝である。
ところが…。
……ガサッ、ガサガサガサ……
奇妙な音に、A君はまた目を覚ました。
テントが靡いているのかと思った。風が強いのだろうか?
いや、さっき起きて外に出たときには止んでいたはずだ……。
A君は寝袋から抜け出して、またテントの外に出た。
風はなかった。
あたりを見回してみたが、板切れやゴミなど、テントにぶつかるようなものもない。
「おかしいなあ、気のせいかなぁ……」
再び寝袋に入り、うとうとっと来た時だった。……ガサガサガサ……また音がする。
さっきより大きい。
―牛だろうか?いや、牛は高電圧の柵の中から出られないはずだから、ここまでやってくるはずはない―
暗闇の中でぱっちりと両目を開いたまま、A君は奇妙な音に耳を澄ました。
……ガサガサガサッガサガサッ……
よく聞いてみると、テントの表面に何かが触る、というか、当たっているような音だ。
「まてよ……そうか、きっとそうだ!」
A君は、急に低い山ではシーズンになると、時々テント荒らしが出没することを思い出した。―そうに違いない―
「何してるんだっ‼」
虚を衝こうと大声で怒鳴りながら、またテントの外へ転げ出た。
A君は、体格もよく一応柔道は二段である。
テント荒らしの一人や二人、の・す・ だけの自信はあった。……が、
「あれえ???」
キョロキョロと探し回ってみたが、やはり誰もいない。
牛もいない。
風もない。
仕方なしに懐中電灯を手に、首をひねりながらテントの中に入ってから、1秒も経っていない時、
……ガサガッ……ガサッガサガサガサ……
また音がした。さっきより遠慮のないしつこい音だった。
今度は、懐中電灯を点けたままでテントの中が明るくなっていたため、A君は反射的に音のする方を見たわけだが……。
「それが、テントの斜めに張ってある布の部分が、外から押されて、ガサッガサッ、と音をさせながら確かに飛び出てくるものがわかるんですよ」
テントの片側は岩肌、片側は道である。
音を立てながら何かが凸型に飛び出てくるのは、岩肌側のテントの布だった。
「?…」
懐中電灯で、音のするその箇所をさらに大きく明るく照らし、もう一度よく見ると……。
……ガサッ……
「あっ!」
それは握り拳を作った、人間の4本の指の関節だった。
音がするたび、握り拳の形が布の向こうからくっきりと浮かび出てくるのだ。
―やっぱり泥棒じゃないか―
「コラー‼」
正体を確信したA君は、ありったけの声を張り上げながら、今度はいきなり、その拳が見えたテントの岩肌側に走って出た。
けれど、やはり誰もいないのである。
テントの周囲をくまなく回ってみたが、誰もいない。
生き物らしきものもいない。
片面の岩肌はほぼ絶壁で行き止まり。反対に伸びている路上にも人影はなく、後は見渡すかぎりの草原である。
とても人が隠れるような場所はない。
テント荒らしに来た人間はものすごいスピードで柵を越えて、草原のかなたに走り去ったとでもいうのか。
「おかしいなあ、確かにいたんだがなぁ……?」
それでも、背を伸ばして道の向こう側に暗闇をのぞいているときだった。
A君はいきなり後ろから、ツンツンと右肩をつつかれた。



ハッとして振り向いてから、
「ギャーッ‼」
A君は本当に腰をぬかし、へなへなとその場にへたり込んでしまった。
テントを張る時には霧のため気づかなかったが、すぐ目の前に張り付くようにして、岩と見まがう小さな遭難碑(慰霊搭)が
建っていたのである。
「こんなところでは、とても夜を明かせない……」
遭難碑の真ん前というとんでもないところにテントを張ってしまい、恐ろしい目にあったA君(サラリーマン、29才)は、大急ぎで荷物をまとめリュックを背負った。
懐中電灯を握りしめ、ポケットのラジオのスイッチを入れると、真夜中の山道を転げるように走り出した。
「坂道を下っていったんですよ。坂を上れば15分ほどで山小屋だったんだけど、荷物背負ってるから下るほうが楽ということもあったし、それにしばらく行けばキャンプ場があって大勢人がいるはずだったんです……」
実はA君の悪夢のような夜は、この後から佳境に入るのである。
懐中電灯を消せば、それこそ一寸先は闇である。
あたりは人気のない高原とあって、シーンと静まり返っていた。
虫の音さえ聞こえない。
A君は思わずラジオのボリュームを最大に上げた。
その時いったいラジオから何が流れていたのか、とにかく大パニックに陥っていたA君は、まるっきり覚えていない。
ただ自分が手に持って照らしている、5メートルほど先の懐中電灯の丸い光りを頼りに、ひたすら走り続けた。
ところがである。
5分ほど走っただろうか。
プツッ……電池を換えたばかりのはずなのに、あっけない音を残して、勇気の源だったラジオが突然聞こえなくなったのだ。
ラジオが消えたとたんに不気味静けさが広がった。
「マジかよ……」
と思うと、新しい恐怖が頭をもたげてきて、だらだらと脂汗が出てきたという。
「ほんとバカみたいなんだけど、仕方ないから俺、大学の校歌歌ったですもんね。一人で、大声で……」
A君は、校歌を歌いながら、バタバタと大騒ぎで坂道を下り続けた。と、
「今度は、行く手というか道の上を照らしていた懐中電灯の光が、突然消えたんです。手元の懐中電灯はちゃんと点いているのに、照らしている先がないんです。走っている間じゅう、ずっと白っぽい光が見えてたんですけど、それが、ふっと見えなくなったんですよ」
転げるように走っている最中だ。
そのことに気付いて立ち止まろうとしたのだが、なにしろ下り坂で勢いがついているため、急には止まれない。
A君は何メートルか惰性で進んでしまった。
と、突然、ものすごい風が顎の下のほうから吹いてきた、という。
「あわわ……」
A君はつんのめった。
つんのめったおかげで、やっと止まることが出来た。
懐中電灯の光が消えるはずである。
A君がやっと止まったところから50センチほど先は、底も見えないほどの深い谷になっていたのだ。
「危機一髪でした。谷底から烈風が吹いてきて助かったんです。あの風がなかったら確実にお陀仏ですよ。それよりもっと怖かったのは…」いったい自分は、なんでこんなところに立っているんだろう……ハアハアと肩で息をしながら、崖の縁に立ち尽くしたA君が、ゆっくり振り返ってみると、
「!?」
すぐ後ろに、何十という墓石が、ひしめくように並んでいたのである。
それは、寄り添ってA君の背中をじっと見つめているように見えた。
真っ暗闇であるにも関わらず、墓石の一つ一つが、ぼーっと浮き上がるように見えている「ギャー‼」
A君はまた走り出した。
走りながら、こんなところに墓地などあるはずはない、などと考えたが、とにかく、走るよりほかはなかった。
どこをどう走ったのか全く覚えていない。
その間、時々、後ろから誰かに肩をつかまれたというが、
A君は一度も振り返ってはいない。
「肩もつかまれたけど、そいつというか、
ソレはなんとなく右側の後ろのほうにいる、という感じがずっとしてました。なんか視線を感じるんですよ。ついてきていたのかもしれないでも逃げるのに必死で、振り返るなんてとても出来なかった。とにかく人がいる場所にさえ行けば……とそれだけでした。」
あの時坂を登ってさえいれば、とっくの昔に山小屋に着いているはずなのに、という思いが頭をかすめたが、今となっては遅すぎた。
A君は、真っ暗な山道をわーわー騒ぎながら、パニックの極致で走り続け、途中でリュックも投げ捨てたという。
どれくらい走っただろうか、今度は先刻からわずかに靄っていたガスが濃くなってきて、あっという間に20センチ先も見えない、という状態になってしまった。
泣きっ面に蜂である。
あたりは白一色。もちろん振り返ったところで何も見えない。
懐中電灯は点いてはいるが、その光は白い空間に吸い込まれるばかりで、果たしてそこが道なのかどうかもわからなくなったという。
さっきのようなことになっては危ないから、と、A君はありったけの理性でその場に立ち止まった。
すると、
「遠くのほうに何人か子供が立っているんです」
A君の行く手十メートルほど先に、小学校の高学年くらいの子供が、5人いるのが見えた。助かったと、A君は思った。
「なんか、人がいたというだけでほっとしたんですけど……」
真夜中だというのに、子供たちは元気な声で騒いでいる。「バカやろー」
「うるせー」
集まって何かゲームでもしているのか、汚い言葉を吐きながらも楽しそうな様子に見えたという。
きっとキャンプ場もすぐそこなのだろう。
A君はそう思って、その子供たちのほうに向かって、引き続き歩き出したのだが、
「……うん!?」
A君は、やっと気が付いた。
あたりは濃霧である。
自分の手のひらさえ、こうやって目の前に持って来ないと見えない状態ではないか。
どうして、あんなに遠くにいる子供たちだけがはっきり見えているのか?
そう思いながら、目をこらすと、
「なんかうすボケているんですよ。うまく言えないんですけど、輪郭だけあって半透明で色がない感じって言うか……」
―あいつら、人間じゃない―
またパニックに陥ったA君は、再び今度は逆方向走り出した。
すると、「いきなり、キナくさいにおいがしてきたんです。火事のようでもあったし、たんぱく質のが焦げるようなにおいでもあった。とにかくイヤーなにおいでした」
走るA君を追うようにして、そのにおいはずっとつきまとってきたという。
「それにやっぱり、このへん(右肩すぐ後ろ)に誰かがピタッとくっついている感じもずっとしてました。」
濃霧の中、A君はがむしゃらに走った。
「バカやろー」
「ふざけんなー、てめー」
走っても走ってもキナくさいにおいがして、時々後ろからさっきの子供の声がしたという。
その声は、お互いに呼び掛けているのではなく、明らかにA君を罵っていたのである。その証拠に、
「ネルのシャツの襟を、後ろから引っ張られて、俺、転んだんですよ。でも後ろはとにかく見なかった。見れませんよ、もう」
リュックも捨て、懐中電灯もいつの間にか放り投げたA君が、スキー場の見張り小屋近くで保護されたのは、明け方近くだった。
いつもは無人のリフト乗り場だが、6月の登山シーズンでイタズラする者が続発するため、たまに警備の人がついていたのである。
A君はその警備の人に
「ガチガチ歯の根も合わないくらい震えていた」状態で助けられた。
後で聞いてみると、テントを張った場所から保護されたリフト乗り場まで、ゆっくり歩いても1時間とかからない距離だった、という。
これは友達から又聞きした話である。


 
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出典元:登山者の体験
http://sakebigoe.com/stories/20150118125206

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