鈴鹿山脈のジプシー
日本は国土の7割が山岳地域であり、ただでさえ狭い日本列島を圧迫している。利用できる平地は限られており、巨大な工場はもっぱら海外に建設するのがトレンドだ。そうした事情もあり、古くから山は身近な存在であり、米が不作の際に農民は狩猟や採集で食料を調達することもあった。
そうした生活を徹底して実践していたのが〈サンカ〉である。〈サンカ〉は定住地を持たない流浪の漂泊民で、山岳地域限定のジプシーのようなものだ。戸籍には登録されておらず、狩猟採集で食料を調達し、食物の不足する冬季には手工業で作った竹細工などの小物を近隣の村々と物々交換したりしていたらしい。
そんな彼らも終戦と同時に徐々に文明世界へと帰化していき、いまでは完全に消滅したとされている。
3年ほど前の早春、俺は例によって山に入っていた。
山域は鈴鹿山脈。南北に滋賀県と三重県を貫く1,000メートル級の低山が40キロほども続いている。とくに中部はいくつもの支脈が走り、峠を越えて長大なコースを作ることもできる。標高の割には歩きごたえのあるエリアだ。
その日は誤算が連続した。孫太尾根から主稜線に取りつき、藤原岳をハント、西尾根を経由して茶屋川に降り立ったまではよかった。ところが茶屋川の遡行はたいへんな難路であり、途中にぶち当たった滝の迂回は文字通り命を賭けさせられた。さらにようよう地図記載の尾根に取りつくも、踏み跡も皆無の完全な廃道と化しており、精神力は削られるいっぽうだった。
それでもどうにか土倉岳をハントし、茨川廃村へ降りてこられた。ここからも不運は続く。伊勢谷ルートを見つけられずに適当な尾根を登ってしまい、これが道迷いを深刻化させる結果になった。命からがら迷い尾根に辿り着いたときにはすでに17:30、あたりは暗くなり始めていた。この時点で俺はもう、一歩も歩けないほど疲れ切っていた。
疲労困憊しているとき、糖の不足によって判断力は鈍る。じきに日没するのだから、このときは多少登りがあってさらなる苦労を強いられるとしても、往路を戻るのがベストであるはずだった。ところが俺はこれ以上登りをこなす気にどうしてもなれず、孫太尾根ピストンを避け、楽な青川峡への下山へ逃げることにした。これが決定打になった。
治田峠に到着し、さてあとは峠を下るだけだと俺は楽観していた。入り口には工事用のトラロープが張られており、「土石流により通行止め」という看板も出ていた。ふつう山屋はこの手の警告を無視する。どれだけ道が荒れていようとも、徒歩で踏破できないようなケースはまず考えられないからだ。
当然俺もそうした。トラロープを潜り、軽快に下っていく。最初はよかった。落ち葉は深く堆積していたものの、道は明瞭でロストするようなおそれはない。ところがそれは罠だった。道がまともだったのは最初だけだったのだ。沢が近づくにつれて登山道は荒れていき、ついには完全に踏み跡が消失してしまった。徹底したことに、木々に巻かれているはずのペナントもひとつ残らず撤去されていた。
例の警告は正しかった。当時の俺は沢・尾根という地形を読む登山を修得していなかったため、パニックに陥ってしまった。どこがどこだかさっぱりわからない。間もなく日没。俺は暗闇に包まれた山のなかに一人、取り残された。
あてもなくさまよっていると、人の声が聞こえたような気がした。それも複数。最初は天の助けだと思った。これでなんとかなる。傾斜のきつい斜面を無理やりトラバースして、声のするほうへヘッドランプの灯りを頼りに突き進んでいった。
徐々に声がはっきり聞こえてくる。ところが妙なことに、彼らがなにを話しているのか一向にわからない。俺はようやく正気に戻り始めた。日没したあと、廃道になった登山道に複数の人間がいる。とてもこれ以上近づく気にはなれない。ヘッドランプの灯りを消し、息をひそめる。
すると彼らがこっちに向かってきた。灯りを消しているのでどんな背格好なのか正確にはわからないが、月明かりが助けになった。人数は六人。老若男女が入り混じっており、みんな妙に背が低い。栄養状態がよいとは言いがたく、手足は枯れ枝のようだった。男女ともに汚らしい蓬髪で、男は濃い無精ひげを生やしている。まだ早春で山は冷えるはずなのだが、まとっているのは甚平か作務衣らしきぼろぼろの衣服のみ。
なにより不思議なのは、彼らが日本語を話していなかったことだ。沖縄や青森のように本州から外れるほど、方言ははなはだしくなる。それでもだいたいなにを言っているかはわかるし、なによりここは日本のど真ん中である。英語でも中国語でも韓国語でもなかった。それはまぎれもなく独自の言語だった。
彼らは道なき道をまるで通勤路のように歩き、俺には気づかないまま鬱蒼とした樹林帯へ消えていった。俺は時間を忘れて彼らに魅入っていた。幽霊なんかでは絶対になかった。あれはまぎれもなく実体を持った人間だった。ただ彼らの素性の説明がつかないだけで。
十分以上もその場に釘づけにされていただろうか。連中が戻ってこないことを確認すると、俺はがむしゃらに沢を下り始めた。道に迷ったときは尾根を登るのが鉄則とされているけれども、尾根のほうにいくと彼らと遭遇する可能性がある。沢を下ればやがて本流に出られるので、これは次善の策として有効だ(とはいえ途中に滝があると立ち往生するので、おすすめはできない)。
やがて広大な河原に出た。地図によればこのあたりまで林道が通っているはずなのだが、林道はどこにも見当たらない。まちがった沢に降りてきてしまったのか。ここまできてしまった以上、戻る気力も体力も残っていない。方角を進行方向である東にとり、ひたすら河原を歩き通す。
途中に何度も水没しつつ、19:30ごろ、ついに林道らしきものを発見した。あとで調べてわかったのだが、林道は記録的な土石流によって河原の下に埋まってしまっていたらしい。俺は奇跡的に正しい沢に降りてきていたのだ。ここまでくればもう安心である。青川峡キャンピングパークのにぎわいを見て――人びとが交わす日本語に安堵して――車道を歩き、孫太尾根の入り口である墓地に帰還。20:15、実に11時間以上にもわたる山行だった。
登山道具をリアハッチに放り込み、運転席に座ってエンジンをかける。ライトに照らされた孫太尾根登山口が、不気味に浮かび上がっていた。
鈴鹿山脈の滋賀県側斜面には、昭和中期くらいまで林業で生計を立てていた山岳の村が多数点在していた。今畑集落、茨川村、御池鉱山跡地、保月集落など、いまでも家屋の残っている廃村もある。いまではそのすべてが廃村になってしまっているが、このような土台は山岳の漂泊民である〈サンカ〉たちにとって、たいへん住みよい環境だったのではないか。
それほど標高を下げることなく村に住む人間と物々交換ができる環境ならば、〈サンカ〉が遅くまで――少なくとも上記の村々が廃村になった昭和中期くらいまでは――残っていたとしてもおかしくはない。
俺が遭遇した〈彼ら〉とはもしかしたら、山に魅入られて文明から取り残された現代の〈サンカ〉だったのかもしれない。
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出典元:山岳の漂泊民
http://sakebigoe.com/stories/190713104017089