十和利山熊襲撃事件
秋田県鹿角市の山林で、タケノコ採りの男女4人が相次いでツキノワグマに襲われて死亡し、遺体の一部が食べられていた衝撃的な事件から間もなく2年になる。現地で追跡調査を続けてきたNPO法人「日本ツキノワグマ研究所」の米田一彦理事長(70)は、人の体を食べていた5頭のうち、今年も3頭が生き残った可能性が高いとみている。鹿角市以外にも、同様の事故・事件が危惧される地域が東日本に5か所あり、十分に注意してほしいと呼びかけている。本格的な山菜採りシーズンを前に、米田理事長に緊急報告してもらった。
「食害グマ」3頭のその後
今年4月中旬から事件現場を踏査してきたが、雪解けが早いことや子連れグマが見られるなど、2年前の2016年の春と状況が似ている。
16年の5月下旬から6月上旬にかけ、秋田県鹿角市十和田大湯の熊取平くまとりたいと田代平たしろたいの2地区でタケノコ採りに入山した人たちがクマに襲われ、4人が死亡し、4人が重軽傷を負った。十和利山とわりやま(標高990メートル)の南麓に広がる酪農地帯で起きたことから、私はこの事件を「十和利山クマ襲撃事件」と呼んでいる。戦後最悪のこの獣害事件で特に重大だったのは、死亡した4人全員がクマによる食害(人間を食べること)を受けていたことだ。
事件の概要は次のようなものだ。
タケノコ採りシーズン中の16年5月21、22、30日に60~70歳代の男性がクマに襲撃され、遺体で発見。6月10日には70歳代の女性がクマに襲われ、遺体で見つかった。4人の遺体にはクマに食べられた痕があった。
推定120キロの「大きな赤毛の雌グマ」。2人目を襲撃したのがこのクマだとみられる(2017年7月30日、田代平で撮影)=日本ツキノワグマ研究所提供
女性が遺体で発見された6月10日の第4現場付近では、体長1メートル30、体重70キロの雌グマが射殺された。胃の中から人体の一部が見つかったことから、4人を殺害したのはこのクマだという見方もあった。が、クマの社会では体の大きな雄が優位にあり、第4現場近くを移動する大型のクマが目撃されていたため、私はこのクマこそが“主犯”ではないかと推測。鹿角市の頭文字をとって「スーパーK」と名づけ、行方を追っていた。
現地で追跡調査と聞き取り調査を行った結果、第2現場(5月22日)で男性を襲ったのはスーパーKと名づけた若い雄グマではなく、その母グマで、当時、子連れだった「大きな赤毛の雌グマ」(推定体重120キロ)と推測。それ以外の3人はスーパーKが殺害したと結論づけた。スーパーK(推定4歳、84キロの雄グマ)は16年9月3日に田代平で駆除(捕殺)された。
人間を襲撃し、食害したクマはこの2頭を含め、計5頭いたと考えられる。人を襲い、食べたクマは、再び人間を襲う危険性がきわめて高い。では、その後、生き残った3頭のクマはどうしているのだろうか。
現地で追跡調査を続け、17年秋の段階で、大きな赤毛の雌グマの生存を確認している。同年7月30日から8月5日まで田代平の南端地域でしばしば目撃し、9月27日にも目撃している。赤毛は10歳以上の高齢の雌グマにみられる特徴で、外見から老齢化が進んでいるように見受けられた。今年春に出産したとすると、高齢個体であり、消耗している。過去の殺害・食害経験がよみがえり、人を襲うかもしれない。危険な状況だ。
さらに、第3現場(5月30日)と第4現場で食害し、他に3人を襲って2人に軽傷を負わせた体長90センチの雄グマは、17年秋まで、田代平の北部と、隣接する青森県新郷村迷ヶ平まよがたいの間にあるキャンプ場や駐車場など、人の出入りが多い場所にもしばしば現れた。毛の艶も良く、すこぶる健康そうだった。最後に目撃した時点で、体長110センチほどに成長していた。額の左側に古傷のあるこの雄グマが、3頭の中で最も危険なクマだと私は考えている。
また、第3現場で食害し、6月30日に男性に重傷を負わせた「気性の激しい雌グマ」は生き残った。私は今年の4月24日に田代平で、放置されていた生の大豆を食べている様子を実際に観察した。
「気性の激しい雌グマ」については今年も生存を確認したが、大きな赤毛グマ(スーパーKの母親)と額の左側に古傷のある雄グマについては昨年の秋以降、目撃していない。が、駆除(捕殺)されたという話は聞いていないので、生き延びた可能性は高い。今年も厳重な警戒が必要だ。
大規模な大豆、ソバ、コムギ畑の出現
この地域で、なぜ、あのような重大事件が発生したのか。主な原因として、〈1〉13年と15年にドングリ類が豊作で、クマの出産が進み、一時的に子連れの母グマや子別れ直後の若いクマが多くなった〈2〉事件の3年ほど前からタケノコ(ネマガリダケ)が不作で買い取り価格が上昇し、採取者が増加していた〈3〉酪農家の減少とともに、跡地利用のため事件の7年ほど前から、この地域に大豆、ソバ、コムギの畑が大規模に出現していた――ことがあげられる。
特に問題となるのは、〈3〉の大規模な大豆、ソバ、コムギ畑の出現だ。クマたちが大豆やソバ、コムギに依存し、一年中、同地に居ついて離れない状況になっていた。クマは容易に餌が取れる場所にとどまる性質がある。この地でクマたちは、4月中ごろの越冬終了後から木々の葉芽や花芽を食べ、雪解けの早い斜面や沢筋などで草の若葉を採食する。5月半ばから6月中ごろまではタケノコを食べ、その後、クワの実やヤマザクラの実を食べる。7月10日ころから大豆の若葉や花芽を食べはじめ、8月半ばまで続く。その間、ソバの花芽やムギも食べ、8月末からはシウリザクラの実やドングリ類を採食する。
問題は、9月中ごろから大豆畑にクマの足跡が増える点だ。収穫期に規格外の小さい豆は畑に大量に捨てられるため、多くの動物を養っている可能性がある。ただ、「生の大豆」には有害成分が含まれているため、クマたちが実際に食べているのかどうか、追跡して調べてみた。
16年と17年の秋には、その様子は観察できなかったが、18年4月24日に田代平で、生大豆の山の前に座って豆を食べているクマを発見し、30メートルまで接近して撮影することができた。このクマには胸の月の輪模様の左側が通常より40%ほど短いという特徴があり、気性の激しいあの雌グマだとわかった。秋に硬い生大豆を食うのではなく、春に水分を吸って「ふやけて膨れた」生大豆を食べていたのだ。
この豆は水分にさらされ、有害成分が減少しているのかもしれない。このクマたちは一年中、この地域から離れずに暮らしているのだ。
事件が起きた熊取平と田代平では、今年も5月1日から11月まで、市道2本と林道が閉鎖される。この入山規制により、山菜採りの人たちは監視や指導がそれほど厳しくない、事件現場周辺の青森県新郷村迷ヶ平、青森県田子町四角岳、秋田県小坂町の十和田湖外輪山の南側などに集中するようになるだろう。このエリアも危険地帯なので、十分に注意してほしい。
事故の発生傾向からみると、この秋田県鹿角市周辺以外でも、クマによる事故が連綿と続く地域が、東日本に少なくとも5か所ある。このような地域には、攻撃的なクマの系統が存在するのではないかと考えられる。注意を促す意味も含め、概要をお伝えしたい。
〈1〉鹿角市に接する旧田沢湖町玉川(現・仙北市田沢湖玉川)地区
昨年5月27日に61歳の女性が襲われ、死亡した。襲ったクマは、秋田県の捕獲調査から判断して、生き延びているとみられる。この件は、食害もない偶発的な事故だが、現場は私が以前から、重大事故が発生する恐れがあるとして注意を呼びかけていた地域だった。
発生場所は国道341号の最高標高地点で、周囲は残雪に覆われているが、この地域だけが火山性の地熱のため雪が早く消え、クマが好むタムシバ(コブシに似たモクレン科の木)が密に繁茂し、タケノコも早く出始めるからだ。私が秋田県庁に在職していた1983年6月24日に、この場所から近い旧田沢湖町大深沢でタケノコ採りの女性(当時48歳)がクマに襲われて死亡。遺体は「顔面挫創、両上肢の広範な挫滅創」を負っていた。
襲撃されたときに、同行の男性2人は木に登って助かっている。その後、トドマツの上で40キロの雌グマが射殺され、胃の中から人間の肉片や女性の着ていたシャツが見つかった。ただ、この雌グマはまだ小さく、女性を殺害したクマは別の大型のクマだったのではないかと私は推測している。
〈2〉青森県田子町東部
13年10月24日、田子町遠瀬の四角岳でキノコ採りの男性(当時56歳)が体長1メートルのクマに襲われて重傷を負い、ヘリコプターで搬送された。この若いクマは攻撃性が際立っていた。その後、昨年5月30日にも、同じ田子町遠瀬で男性(当時47歳)が体長約1メートル50のクマに襲われ、全身を引っかかれて足を骨折している。この2例は同一のクマの可能性がある。
十和利山クマ襲撃事件の発生原因を探るべく多数のタケノコ採りの人たちから事情を聞いたが、田子町東部では危険なクマとの遭遇事故が続いていたことを知った。タケノコ採りの合間に座ってパンを食べていると、クマが20分もの間、近くに居座って離れなかったという事例が2件あった。食料の入ったリュックサックが消えたり、クマと引っ張り合いになったりしたケースも5例あった。
〈3〉秋田県・鳥海山北麓
この地域では過去3件の死亡事故が発生し、うち2件では食害を受け、もう1件も食害の疑いがある。
1993年5月29日に旧由利町東由利原(現・由利本荘市)でワラビ採りの女性(当時64歳)が後頭部挫傷で発見され、背中、ふくらはぎがかみ取られていた。2000年6月3日には旧矢島町鳥海山(現・同市)の山林で、タケノコ採りの男性(当時62歳)が全身に爪痕がある状態で発見された。遺体の周辺にはクマの足跡が多数あった。07年6月13日、にかほ市象潟町小滝でタケノコ採りの男性(当時63歳)が全身をクマにかまれ、右足は切断された状態で見つかった。そばにいたクマに向け猟友会員が発砲したが、クマは逃走した。
〈4〉福島県・会津地方
会津地方では、2001年から16年までの間に計72件のクマによる人身事故が発生。このうち、5件が死亡事故という非常に危険な地域だ。特に、会津美里町西本の明神ヶ岳みょうじんがたけ東面では、1頭のクマによる「一撃多殺」事故が起きる恐れがある。最近では、13年5月27日に山菜採りの男性(当時78歳)が襲われて死亡。翌28日に捜索隊の警官2人を含む4人が、遺体のそばにいたクマに襲われ、重軽傷を負う事故が起きている。遺体には食害があった。
明神ヶ岳周辺では、クマによる事故がこれまでに6件発生。昨年5月2日には同町松岸地区の山林で山菜採りをしていた男性が、遭遇したクマに襲われて近くの沢まで約10メートル引きずられ、右足をかまれて重傷を負う事故があった。この二つの事故は、同一のクマによる可能性が高い。
〈5〉新潟県と長野県にまたがる妙高高原地域
20世紀末から、新潟県の旧妙高高原町と旧妙高村(ともに現・妙高市)、隣接する長野県信濃町ではクマによる事故が多発している。特に、女性や女性を含む家族が襲われ続けたが、2004年に「150センチ、157キロの雄グマ」が射殺されてからは事故が減少した。ただし、危険性は残っており、十分な警戒は必要だ。
山菜採りシーズンの注意点
これから本格化する山菜採りシーズンの注意点として、まずは、クマと遭遇しないようにすることを挙げたい。事前に入山地域のある市町村のホームページなどからクマの出没情報を入手し、入山するかどうかを判断してほしい。
山間地では携帯電話が通じない場所も多く、複数の人が組んで入山し、互いに助け合えるようにしたい。現地でクマの糞ふんや足跡、食べた跡などを見たら、無理をせず、すぐに下山することだ。これまでのさまざまな事例からみて、日本海側でのタケノコ採りではラジオの使用はやめたほうがいい。太平洋側では年間を通してラジオは効果があるだろう。他に、釣り鐘型の鈴、爆竹、ロケット花火も有効だ。
クマに襲われたときには、「首をガードして地面に伏せる」ほうがいい。
ザック、スコップなど振り回せるものがあれば、振って体が大きくなったように見せるのも手だ。
最も効果がある道具は、トウガラシの辛み成分の濃縮液を噴霧する「クマ撃退スプレー」だ。アメリカ人女性が考案した、クマにも人間にも安全性が高い道具だ。発射したら、ただちに現場から脱出することだ。私はクマに襲われたとき、4回使用したが、露出した皮膚が30分ほどひりひりする程度で、呼吸困難はなく、目にもまったく影響がなかった。知り合いの新聞記者は、大きなクマに2メートルの至近距離から襲われそうになったが、このスプレーを使用し、撃退した。「クマ撃退スプレー」は登山用品店やインターネット通販などで簡単に入手できる。クマが出没する危険性のある山に入山する際には、ぜひ携行してほしい。
◇
秋田県では、2016年度に476頭、17年度には前年度の1.7倍にものぼる834頭のツキノワグマが捕獲・駆除(捕殺)された。秋田県のように、不幸にして死亡事故が発生するとクマの過剰な駆除が起きる。「農家を助け、クマも助ける」活動を行ってきた私には、人に被害が出たことにも、クマの過剰駆除が起きたことにも胸が痛んだ。
十和利山クマ襲撃事件の発生後、2年間を費やして、事件の全容を見極めようと関係者の聞き取り調査とクマの追跡調査を続けてきた。このほど、後世にこの事件を伝えるべく、『人狩り熊』(つり人社)としてまとめ、出版することができた。被害者の家族がいま、どのような状況に置かれているのかを、ぜひ知ってほしい。協力いただいた多くの関係者に、お礼を述べたいと思う。
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