三毛別羆事件
(12月9日)
日午前11時半頃、三毛別の更に奥に位置する六線沢と呼ばれていた集落(現在のルペシュペナイ川上流域)の太田家で、当主の太田三郎(当時42歳)の内縁の妻・阿部マユ(当時34歳)と太田家に養子に迎えられる予定であった蓮見幹雄(当時6歳)の2人が、窓を破って屋内に侵入したと見られるヒグマに殺害された。
ヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき数十本の頭髪が絡みついていた。しかし、12月の北海道は陽が傾くのも早く、幹雄の遺体を発見して居間に安置したのは午後3時過ぎで、この日に打てる手は少なかった。
(12月10日)
午前9時頃、マユを捜索していた集落の男性ら数十人が太田宅から150mほど離れた裏山付近で、巨大なヒグマと遭遇した。鉄砲を持った5人が銃口を向けたが、手入れが行き届いていなかったため発砲できたのは1丁だけだった。
ヒグマは逃走したため、男性らがヒグマのいた付近を確認すると、トドマツの根本に黒い足袋を履き、ぶどう色の脚絆が絡まる膝下の脚と、頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体を発見し、収容した。
同日夜、太田宅で幹雄とマユの通夜が行われたが、村民はヒグマの襲来におびえ、参列したのは六線沢から3人と三毛別から2人、幹雄の両親とその知人、喪主の太田三郎のあわせて9人だけだった。
午後8時半ごろ、大きな物音と共にヒグマが乱入してきた。棺桶が打ち返されて遺体が散らばり、恐怖に駆られた会葬者達は梁に上ったり屋外に飛び出したりと、右往左往の大混乱となった。
そのころ、太田宅から500mほど下流の明景宅には戸主・明景安太郎(当時40歳)の妻・ヤヨ(当時34歳)、長男・力蔵(当時10歳)、次男・勇次郎(当時8歳)、
長女・ヒサノ(当時6歳)、三男・金蔵(当時3歳)、四男・梅吉(当時1歳)の6人と、事件を通報するため30kmほど離れた苫前村役場や19kmほど離れた古丹別巡査駐在所に向かっていた斉藤石五郎(当時42歳)の妻で妊婦のタケ(当時34歳)、
三男・巌(当時6歳)、春義(当時3歳)の3人、そして事件のあった太田宅の寄宿人で男手として明景宅に身を寄せていた長松要吉(当時59歳)の合計10人(タケの胎児を含めると11人)がいた。
太田宅からヒグマが消えて20分と経たない午後8時50分ごろ、窓を破ってヒグマが侵入した。
ヒグマに居間に引きずり出されたタケは、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた。
駆けつけた村の男性らが鉄砲を空に向かって放つと、ヒグマは玄関から躍り出たのち裏山の方へと姿を消した。
タケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子はなく、そのときには少し動いていたという。
結果的にこの日の襲撃では、タケ、金蔵、巌、春義、タケの胎児の5人が殺害され、ヤヨ、梅吉、要吉の3人が重傷を負った。
力蔵は雑穀俵の後ろに隠れ生還、ヒサノは失神し居間で倒れていたが、同じく生還した[14]。勇次郎は、母ヤヨや弟梅吉が重傷を負いながらも共に脱出し、奇跡的に無傷だった。
(12月12日)
斎藤石五郎から通報を受けた警察は、管轄の羽幌分署分署長の菅貢に討伐隊の組織を指示、討伐隊の本部は三毛別地区長の大川興三吉宅に置かれた。しかし、林野に上手く紛れるヒグマをすぐに発見することはできなかった。
ヒグマには獲物を取り戻そうとする習性があり、これを利用しヒグマをおびき寄せる策が提案され、菅隊長はこの案を採用し、遺族と住民に説明した。
こうして、明景宅に残された犠牲者の遺体を「餌」にしてヒグマをおびき寄せるという作戦が採用された。
作戦はただちに実行されたが、家の寸前でヒグマは歩みを止めて中を警戒すると、何度か家のまわりを巡り、森へ引き返していった。その後太田宅に3度目の侵入を企てたが、結局射殺することはできなかった。
(12月13日)
この日、歩兵第28連隊の将兵30名が出動した。この日、住民が避難し無人になっていた六線沢の8軒がヒグマに侵入される被害に遭ったが、ヒグマの発見には至らなかった。
午後8時ごろ、三毛別と六線沢の境界にある氷橋で警備に就いていた一人が、対岸の6株あるはずの切り株が明らかに1本多く、しかもかすかに動いているのを不審に感じた。菅隊長の命令のもと撃ち手が対岸や橋の上から銃を放つと怪しい影は動き出し闇に紛れて姿を消した。
(12月14日)
朝、昨晩ヒグマがいた切り株の付近に足跡と血痕を見つけた。怪我を負っているなら動きが鈍るはずと判断した菅隊長は、急いで討伐隊を足跡が続く山の方角へ差し向ける決定が下した。
討伐隊の中に、一行とは別で行動していた猟師の山本兵吉(当時57歳)がいた。
山本は山の頂上付近まで登ると、ミズナラの大木に寄りかかっていた巨大なヒグマを発見、200mほど離れたところからハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構え、 2発の銃弾を放った。1発目は心臓近くに、2発目は頭部を貫通させ射殺した。
ヒグマは金毛を交えた黒褐色の雄で、重さ340kg、身の丈2.7mで、推定7 – 8歳と見られた。12日からの3日間で投入された討伐隊員は官民合わせてのべ600人、アイヌ犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にのぼった。
ヒグマの死骸は住民によってそりで下された。すると、にわかに空が曇り雪が降り始め、事件発生からこの三日間は晴天が続いていたが、この雪は激しい吹雪に変わりそりを引く一行を激しく打った。
この天候急変を、村人たちは「熊風」と呼んで語り継いだ。集落に下されたヒグマは三毛別の分教場で解剖されたところ、胃から人肉や衣服などが発見された。その後、ヒグマの毛皮や頭蓋骨などはそれぞれ人の手に渡ったのちに現在は行方不明になっている。
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