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念仏平避難小屋

念仏平避難小屋

 早朝、午前 5:15、長野発。目標、根名草山。
 日光周辺のおもだった山々を登り尽した私にとって、この山は、いささかマイナーながら、その辺りで登ってみたいと思う、数少ない残存山岳のひとつだった。時期的に、そろそろ雪も来そうで、今のうちでないと、また来年に先送りになってしまうと思い、あえて今回登る事にしたのだが、この山、日本○百名山でもなく、また山渓の「日本の山1,000」にも載っていないに拘らず、私にとって、おそらく一生忘れ得ないであろうと思われる位、強烈なインパクトを残す山となってしまった。
 沼田市に入り、椎坂峠近辺まで車を走らせた所で無情なる雨。~(中略)~ 登山口の金精トンネル入口(日光側)着がAM10:00頃。雨は相変わらずなるも小降りのため、あえて登る事に。天候は西から変る。長野県側が晴で、対する東側のこちらが雨でも、そのセオリーからすれば必ず天候は回復すると思ったからで、パーカを着込み、更にその上にカサをさして、勇躍登行開始。
 「金精峠」までの道は、途中からガレ場を右へ巻き気味に「新道」なる所を急登 ~(中略)~ 20分~25分の後に「金精峠」着。金精神社はコンクリート造で風情には今一つ欠けたが、中の「金精様」はハッキリ拝む事が出来た。
 雨には時折みぞれが降り混る。これは上で雪になるのでは ~(中略)~ 案の定、金精峠から湯泉岳近くまで樹林中の単調な登りを高度を上げて行くと、雨はいつしか雪へと変わった。湯泉岳を巻く辺の笹原の伐り開きで、登山靴が湿って行くのには閉口したが、しかし総合的には、雨より雪の方が余り濡れずに済むから、私としては有難い。
 「温泉平」とか「白樺見晴し」とかいう一寸した平に、「金精峠60分、念仏平15分」との標識あり、果たしてそれから15分程で、極めて正確に、念仏平避難小屋前着。11:50。
 この頃には天候は完全に雪だった。私は小屋で地図上ルート確認をしながら、食事をとろうと思い、小屋入口の壊れかけた木ハシゴを登り、ガラリと入口の扉を開けた。すぐに、室内右手の上床に、布団が積み重ねてあるようなのが見えたが、最初はそれが人が寝ているとは思わなかった。
 サブザックをおろし、地図に見入り、ヤア、頂上まではまだ1時間半もかかるかと確認し、ふと足許を見ると、登山靴が1足ある。
 オヤ、誰か泊っているのかと、もう一度件の布団を見ると、どうやらその中で人が寝ているようだと思われた。しかし、それにしては全く動かない。息をしていれば多少は動く筈なのに、微動だにしない。変だと思い、更によく見ると、布団の周囲にはスプライトのペットボトルやら、プラスチック製のカップやらが置いてあり、明らかに人が宿泊中と見えたが、しかしこの様子はどういう事か。荷を置いて、根名草山にアタックしているのかとも思ったが、靴があるのが妙だ。靴を2足も持って来る訳ないし、そもそも今日はサンダルなどで登れる状態ではない。一面、雪で真白だ。とすれば、どうも布団の中に誰かいるとしか思われぬ。私は、薄暗闇をすかして眺めたが、人体の一部らしきものは確認出来ず。それでも、誰かもし寝ているとすれば、余り大騒ぎして起こしても悪いし、とりあえず小屋を出て、先へ、頂上を目指すことにした。
 直に、「念仏平」という、広大な樹林帯に入る。その異様な光景に見入りつつ登行を続けているうち、また先程の避難小屋の妙な情景が思い返された。
 ~考えてみれば、登山靴はカラカラに乾いていた。おかしい。土、日は悪天気味で、今日もこの有様、昨日あたりあの小屋に着いて泊まったとして、靴があそこまで乾く筈はない。それに、数日も泊るような場所ではないし、第一身動きしないというのは変だ。おかしい…
 そんな事を考えながら歩いていると、いつしか露岩のある、展望良さそうな尾根に出た。すると、西の方が案の定天候回復し、眼下に菅沼がよく見渡せるようになった。霧の彼方に次第に明瞭になるその清冽な水面に、しばらくは先程の疑問も念頭から消えた。頂上はもうすぐ目と鼻の先で、頂上まで樹林に覆われた地味な山だったが、とりあえずは三角点の傍に腰を下ろし、簡単に食事をとる。そうしているうち、北の鬼怒沼山方向も晴れ渡り、来たかいがあったと思ったが、それも、帰る際には再度霧の彼方に姿を隠してしまった。頂上着12:45、頂上発13:05。シャッターチャンス待ちのムダ時間5分。13時ジャストの出発とならず。
 さて、問題の念仏平避難小屋前まで戻ったのが、13:45頃。ここで、もう一度中に声をかけてみるか否か、しばし迷った。根名草山頂を往復するみちみち、考える程に疑問はふくらみ、もうその頃にはいい加減気味悪くなっていた~天候とも相俟って~ため、いいや、このまま行っちまえと、一旦はほとんど足が進みかけた。しかし、~(中略)~ 結局立ち去るのは思いとどまり、とりあえずは小屋の中に聞き耳をたててみた。~(中略)~ ところが、雨だれの音の外、何も聞えず。
 そこで、ついに意を決し、再度小屋の中に踏みこんでみる事にした。その際、私は、ワザと中の人を驚かすように、勢い良く扉をひきあけ、「ちわー!」と大声をかけた。普通ならこれで寝ていても起きる筈。
 ところが、起きないのだ。もう一度「ちわー!」と大声をかける。やはり何も変化なし。
 そもそも2時間前に立寄った時と、内部の様子に全く変わりはなかった。



 いよいよ変だと思い、思い切って、手にしたカサの先で、布団の端をまくり上げて見る事に決す。気味悪かったが、布団は意外と薄かったため、もしかすると人はその下にはおらず、単に布団が積み重ねてあるだけかも知れないと考えられた。人の方は、ケガか何かして、装備品を全て残して担ぎ下ろされたのかも知れない。そう願いつつ、カサで早速、布団をまくり上げてみた。
 すると~せいぜい手か足が出る程度だと思ったのに~いきなり人の顔が出た。マズいと思い、一旦カサをひっこめた。こりゃ、安眠を妨げたと怒られるぞと覚悟した。素手でするならともかく、カサでやるなど、そもそも失礼な話ではある。
 数瞬おく。何事も変化はない。普通、あの位されりゃ起きる筈だ。
 ここに至り、私の胸中には、あるひとつの確信が、ハッキリ形をなし始めた。そして、それが完結したのは、再度思い切って、カサで布団をまくり上げ、その人の顔をのぞき込んだ時だった。~(中略)~ 全身、冷水をかぶった如く、ゾーッとした。
 それでももう一度、彼の耳元の板を握りこぶしでたたいてみたが、もとより起きる訳はなかった。間違いない~死んでいる(!)
 私は、後も見ずに避難小屋の戸を閉じ、半ばパニック状態で雪の登山道を温泉岳方向へ向けて駆け登り始めた。様々な憶測、思考が脳裏に交錯する。
 私の見たアレは、一体何だったのか、夢か、うつつか、まさか、こんな、TVにでも出て来るような、殺人ドラマの典型的死体発見シーンの如き事が、他ならぬこの我が身にふりかかるものなのか?
 手で触れて確認した訳じゃない、だから、ひょっとしたら… しかし、前後の様子から、確かに、彼は死んでいた。とすれば自分は、これから先どうしたらいいのか? それにしても、ここは、金精峠をはさんで、奥白根山と相対する位置関係だ。まだ、完全に冬期に入ったという訳でもないのに、人が通りかかって発見するという事はなかったのだろうか? そんなに人通りの少ない所なのか? そんな筈はないように思うのだが。登山靴の乾き具合からみて、少なくも4~5日は経っていたようだ。なのに、誰も彼を見付け得なかったのか? はたまた、見付けはしたが、関わりになるのを恐れて、黙って下りてしまったのか? ならば、私もそうすべきか。どうせ小屋の中、傷む心配もないし、いずれ誰かが発見しよう。しかし、私が知らせなければ、また少なくとも数日、遺体発見は遅れるやも知れぬ。私は一体どうしたら良いのか… 判らぬ。 
 こんなことを考えながら、あわてて走っているうち、温泉岳東面のトラバースのクマザサの伐り開きで、足をとられて転倒しかけた。そこで、ようやく我に返った。
 落ち着け、落ち着いて考えよう…
 気分を鎮めると、幾らか考えが論理的に、かつ冷静になって来た。~(中略)~ 今、この事実を、誰よりも早く、また誰よりも正確に、下界に伝え得る人間は、正にこの自分自身より他にないのだ。頑張れ、気を確り持て~
 こう考えると、大分私も気がラクになった。そして、不思議なもので、それまでの、背後から死体の男がまるで追いかけて来るかのような切迫感も一気に薄れた。とにかく、落ち着く事。
 私は、一歩一歩慎重に、下山を続けた。いずれにしても、放って、何食わぬ顔で帰るなど論外だ。腹をくくった。
 車に帰着したのはPM3:05頃。小屋から意外と早く到着。そこで、すぐにパーカを脱ぎ去り、~(中略)~ さあそれから、もうスピード違反は承知の上で、すぐ下の菅沼の売店まで車で急降下。
 車を停めるや、売店の売り子の所へ駆け寄って、
 「オイ、遭対協か何かの事務局ないか? さもなきゃ電話貸してくれ、この上の小屋ん中で人が死んでるんだ、早く報せたい」
 と言うと、何と公衆電話は、この売店が11月一杯で閉じるため、それに先立って下におろしてしまったという。
 愕然としていると、その売り子、向こうの建物に、店長がいるから、そこから下へ無線で連絡してもらえという。そこで、早速そちらへ行って事情を話すと、彼ら、
 「アンタ、今日は帰れないよ、やっぱりこないだも遭難さわぎがあってねえ、それで、その小屋は群馬県側か、それとも栃木県側かい?」
 と聞くので、早速持参の地図を広げる。



 すると地図上で見る限りは、群馬県側に見えたため、じゃ群馬県警に連絡するとて、早速無線でコールを始めた。
 さて、警察が到着するまでには1時間近くかかるというので、私は、その間に公衆電話で自宅に連絡をとろうと考え、念の為売店に名刺をおき、車で飛び出した。ところが丸沼畔にも電話なし(後で、スキー場の方へ行けばあったと判明した)、仕方がないから更に白根温泉の方へと下って行く途中で、1台のパトカーとすれ違った。ヤア、遅かったわいとUターン、すぐにそのパトカーを追いかけると、そのパトカー、じきにハザードを出して道の途中で停止した。~(中略)~ それからは、先に行き過ぎてしまったスキー場まで戻り、早速事情聴取と相成った。相手は、片品の鎌田の駐在さん。
 とりあえず状況と、住所氏名、連絡先等をきかれ、そこの公衆電話で本署と連絡をとり、更に本署の人間が到着してからは、場所を代えて更に詳しく状況をきかれ ~(中略)~ 「ツーンと鼻をさすようなにおいはしなかったかね」「顔色はどうだったかね、真っ白だったかね」「おたくの判断として、確実に死んでると断言出来るかね?」等きかれた。それらに対し一々応答すると、そのうち係長らしき人が遭難救助隊らしき人に電話をかけ、
 「これから、この人に案内してもらって、生死だけでも確認して来たいんだが」
 などと言い出した(!)。おい、マジかよ、この寒いのに真っ暗な中、またあんな気味の悪い所へ登らにゃならんのかい、とウンザリしたが、しかし、そうなることはある程度覚悟していたので、もしも頼まれれば、無論、行くつもりだった。ところが、結局、もう夜遅いし、これから上がっても、確認出来るだけで、死体を下ろす事は出来ないし、こちらは遠方からお越しだから、調書だけとったらお帰り願おう、という事で、再度現場へ連れ戻されるのだけは免れた。
 それでも、最後に、確かに死んでいるという確信は如何かときかれたため、まず間違いないと思う、と答えると、その場はそれで終わり、~(中略)~ その後、片品村の鎌田の駐在所まで下り、そこでPM8:15頃まで「供述調書」をとられるハメとなった。~(中略)~ 調書は、私の「供述」をもとに、ほとんど彼が書いてくれたが、ただ、現場の見取図のみ自分が作成した。
 調書はB4版4~5枚にもわたり、書き終わった後、駐在さん、
 「一応私が書く所を山崎さん見られてるから良いと思いますが、もう一度朗読しますので、図を描きながらで結構ですが、きいてて下さい」
 と読み始めた。内容は非常に正確で、さすがは職人芸。~(中略)~ ともあれ、後で件の人の生死だけでも知らせてくれとお願いし、ようやく家に帰れる事になり、駐在さんとは丁重に礼を言って別れた。~(中略)~ 帰りは鳥居峠経由、結局長野着は翌日の午前1時前後となり、月曜日の午前中は職場を休むハメとなった。
 追伸
 23日に鎌田の駐在よりTELあり。その時点で、身元不明、捜索願も群馬、栃木双方にまだ出ておらず、~(中略)~ 21日は7時半発予定が11時半頃に。(問題の小屋は、地図上群馬側かと思ったが、実は栃木側だったため、栃木県警に引き継いでいたため。群馬からも応援出動したそうである。)死因も不明、衰弱ではないかとの旨。
 山日記の引用はここまでだが、その後、その年の12月下旬に、御親族の方からのお手紙を受け取り… 身元の確認も取れ、無事、父母の眠る墓に納められた旨。合掌。


 
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