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二段ベッドの山小屋

二段ベッドの山小屋

岩稜帯の険しい尾根道に手こずり、目的の山小屋についたのは、
予定を1時間もオーバーした、午後4時近くになってしまいました。

昭和30年代に建てられたという古い山小屋は木造の2階建てで、
1階に小さな談話室と食堂、そしてその奥に敷居が少し傾いた狭い自炊部屋と、
この山小屋の従業員の部屋があり、階段を上がった2階の長い廊下の南側に、
4つの大部屋が並んでいました。

受付で私があてがわれた部屋は、1階から階段を上がった一番手前の部屋で、
8畳程の部屋の中には、カイコ棚のように二段ベッドが向かい合わせに4つ並んでいました。
いわゆるスキーヤーズベッドルームと呼ばれる8人部屋です。

山を紅く染めた紅葉も終わり、気温が下がった朝には冠雪もあろうかという11月初旬の山小屋は、
小屋仕舞いを間近に控えて閑散としており、私がザックを下ろしたベッドルームには、
他に登山客の姿は見えませんでした。

貸し切り状態の大部屋で、私は部屋の一番奥の窓縁にあるベッドの上段に大の字になり、
厳しかった岩稜歩きで、疲れきった身体を休めました。
それがたとえ山小屋であれテントであれ、一日歩き通した後に、
手足を伸ばして大の字になった時の心地よい脱力感は、
何者にも変えがたい幸福感があります。
すぐに睡魔が襲ってきて、私は海の底に沈むように心地よい眠りに落ちました。



目が覚めると、小さな窓の外には既に夜の帳が落ちていて、まだ夕食を取っていなかった私は、
慌ててザックの中から、食材と炊飯用具を取り出し、部屋を出て急な階段を下りました。
素泊まりの私は、夕食を自炊しなければならなかったのです。

自炊部屋に向かう途中、通り際に談話室に目をやると、男がひとりぽつんと
椅子に座っているのが見えました。
背は高そうですが、山をやるにしてはずいぶんと色の白い、華奢な体躯をした男性です。
単独行の登山者なのか、あるいは仕事を終えた山小屋の従業員なのか、
その男性は椅子に座ったまま、何をするでもなく、ぼんやりと窓の外を眺めていました。
私は別に声を掛ける事もせずに、談話室の横を通り抜けて自炊部屋へと急ぎました。

すでに午後8時を過ぎた薄暗い自炊部屋には人影もなく、私は気を許して
長い時間眠ってしまった事を悔いながら、コッヘルに湯を沸かし、
寂しく即席のラーメンを啜りました。

あと30分もすれば消灯の時間になり、山小屋は常夜灯の小さな灯りだけを残して、
朝まで静寂に包まれます。

食事を終えた私は、自炊部屋から直接外に繋がる引き戸を開けて山小屋の外に出ると、
身を切るような冷気の中で、凄みすら感じるほどの満天の星を眺めながら、
ひとりタバコを燻らせました。
まったく高山に広がる星空は、何度仰ぎ見ても言葉で説明できない程の美しさです。

首が痛くなるほど星を眺めた後、私は自炊部屋に戻って、炊飯用具を手早く片付けました。

急な階段を登ると、廊下はすでに天井の常夜灯を残して灯りが落ちていました。
しんと静まり返った長い廊下が、常夜灯のオレンジ色に薄暗く照らされて、
何とも言えない陰気な雰囲気を漂わせています。

そんな雰囲気の中で、自分の部屋のドアを開けた私は、思わず声を出しそうになりました。

私以外誰もいないとばかり思っていた部屋のベッドに、男が横になっていたのです。

ドアを開けて、すぐ右側の2段ベッドの下段に、男は鼻の辺りまで布団に包まって、
すでに寝息を立てていました。
ベッドの横には、キスリングの大型ザックが無造作に置かれています。

登山の世界には「早寝早立ち」という言葉があります。
午前中どんなに天気が良くても、森林限界を越えた世界では、午後になると
雷やスコールが発生する事が頻繁にあるため、出来る限り早く行動を開始し、
少なくとも午後3時過ぎくらいまでには、当日の行動を終了させるのが原則になっているのです。
ましてや日が落ちてしまってからの高山での行動は、自殺行為に近い危険なものです。
そんな常識が私の頭にあったため、夜も8時を過ぎて、私以外誰もいなかったこの部屋に、
夕食を取るために席を外したわずかな時間の間に、まさか他の登山客が入っているとは
思ってもいなかったのです。

しかし、そんな常識から考えると、もしかしてこの男性登山者は、
私がこの部屋に初めて入った時には実はすでに到着していて、ザックだけをこの部屋に置き、
本人は自炊部屋や談話室で寛いでいたのかもしれません。
あるいは、私が窓際のベッドの2階で熟睡しているうちにこの部屋に入り、
眠っている私に気を使って音を立てずに部屋を出たと考える方が自然かもしれません。
そして私が部屋を出る時には、主のいないベットの上にキスリングのザックが置かれており、
その事に私が気付かなかっただけなのかも・・・。

そう思い直して、私は眠っている男性を起こさないように窓際まで忍び足で行き、
2段ベッドの梯子を登って、自分の寝床で手足を伸ばしました。

あと5分ほどで午後9時の消灯時間です。私は、ザックからライトと朝起きた時に
必要な小物を取り出して枕元に並べました。
消灯してしまえば、部屋は窓から差し込む星明りが頼りの薄暗闇の世界です。
何かあった時、ライトがなければまったく行動ができません。
消灯の準備を整え終わり、後から来た登山客の事が気になった私は、
ベッドの上段からそっと首を伸ばして、男が寝ている入り口に近い下段のベッドを覗きました。

男はぴくりとも動かずに、軽い寝息を立てています。

被った布団のために顔全体は見えませんが、髪型や閉じた目の感じから、
私が自炊部屋へ向かう途中に、談話室で見かけた男に似ているような気がします。
艶のある髪を見ると、年齢は私よりもずいぶん若いように思えます。
しかし、それにしては古めかしいキスリングのザックが少し不自然です。
一昔前は山の世界で全盛だったキスリングザックも、
今は高機能で軽いナイロン製のザックにその主役の座を奪われて、
伝統を守る大学の山岳部の合宿山行で見かける程度になってしまいました。
雰囲気といい、キスリングのザックといい、
妙な登山者だなと思っているうちに時計が午後9時を指し、
部屋の灯りが落ちて、晩秋の山小屋は闇に包まれました。



夕食の前に、深く眠ってしまったせいか、私はなかなか寝付けませんでした。
身体は疲れているのですが、妙に神経が昂って深い眠りに入れないのです。
ベッドの上で何度も寝返りを打ちながら、まんじりともしない夜を過ごしているうちに
深夜になってしまいました。
蛍光塗料で塗られた腕時計の針が午前1時を指しています。
「このまま眠れないと、明日の山行が辛いなあ」などとぼんやり考えながら、
それでもようやくうつらうつらし始めた時でした。

急に耳鳴りがし始めたのです。

ゴォォォォォォォォォォォ

それは、地の底から吹き上げてくる風のような音でした。

異変に驚き、慌てて起き上がろうとした瞬間、
身体全体が何かに押さえつけられたように
身動きが取れなくなりました。

金縛りです。

ゴォォォォォォォォォォォ

耳鳴りはますますひどくなり、手足は動かず、声も出ません。
懸命に歯を食いしばり、身体を動かそうともがきながら目を開けて横を向いた途端、
私は声にならない悲鳴を上げました。

2段ベッドについた梯子から男が顔を突き出して、私を覗き込んでいるのです。

薄暗闇の中で、男が蝋人形のように無表情な目をして、
2段ベッドの上で横になっている私を、じっと覗き込んでいるのです。
それは紛れもなく談話室で見かけた、そしてこの部屋の入り口近くのベッドで
布団をかぶって寝ていたあの男です。
無表情な男の顔が私に覆いかぶさるように近づいてきます。
あまりの恐怖に私は目をきつく瞑り、渾身の力を込めてもがきました。

突然、耳鳴りが止み、金縛りが解けて、私は弾かれたようにベッドの上に上半身を起こしました。

全身に凄い量の冷や汗を掻いています。

慌ててベッドの横を見ましたが、梯子から男の顔は消えていました。
恐る恐るベッドの端に移動して、男が寝ていたはずのベッドを覗きました。
窓から差し込む星明り中でしばらく目を凝らしているうちに、少しずつ闇に目が慣れて来て、
階下の様子が見えてきました。

ベッドから、男の姿が消えていました。

私は、枕元に置いてあったライトを手にすると思い切ってスイッチを入れ、
階下のベッドを照らしました。
やはり男の姿はありませんでした。
ライトを照らしたまま、恐る恐る2段ベッドの上から階下に下りました。
男が横になっていたはずのベッドは、掛け布団が綺麗に足元に畳まれて、
ベッドの脇に置かれていたはずのキスリングの大型ザックもなくなっていました。

夜中の1時過ぎです。
こんな時間に山小屋を出て、単独で岩稜の山を歩くのは自殺行為です。
不意に、さっき自分を覗き込んでいた無表情なあの顔を思い出して、
全身に鳥肌が立ちました。

部屋にいるのが怖くなり、私はドアのノブを回して静まり返った廊下に出ました。
そして、1階に下りるために部屋を出て右にわずかに行き、
急な階段の手前で何気なく廊下を振り返った私は、
硬直したようにその場に立ち竦んでしまいました。

部屋を出て、階段とは反対方向に続く、常夜灯に照らされたオレンジ色の廊下を、
あの男が歩いているのです。
こちらに背を向け、大きなキスリングザックを背負い、
長い廊下の突き当たりに向かって、まるで魂のない操り人形のように、
不自然に右に左に傾きながら、ゆらりゆらりと・・・。

そして・・・歩いている男の膝から下が、私には見えないのです。

立ち止まったまま、私はその光景を凝視していました。
いや、立ち止まっていたのではありません。恐怖のあまり、
その場から動く事が出来なかったのです。

やがて男は、廊下の突き当たりまで行くと、
壁の前で立ち止まり、奇妙な動きで壁に向かって右手を出しました。
オレンジ色の薄明かりの中で、じっと目を凝らすと、
壁には小さなドアがついていて、
男はそのドアについたノブに手を伸ばしたのでした。

男はノブを引き、開いたドアの向こうに、背を屈めるようにして消えていきました。

音もなくドアが閉まりました。



心臓が口から飛び出すほどの激しい動悸で身体を硬直させていた私は、
しばらくして我に返り、悲鳴を上げながら階段を駆け下りました。
私の悲鳴を聞いた山小屋の若い従業員がふたり、1階の自室から飛び出してきました。
歯が合わぬ程ガタガタと震えながら、私はたった今自分が体験した事を従業員に話しました。
初めこそ、何事かと真面目な顔をして私の話を聞いていたふたりの従業員は、
やがて呆れた顔になり、大きくあくびをしながら言いました。

「お客さん、夢でも見たんですよ。今日、あの部屋に泊まっているのはお客さんひとりだけですよ」
「他のお客さんが起きてくると、また面倒だから早く寝てください」

談話室の入り口で、自分よりひと回り以上も若そうなふたりの従業員に私が諭されているところに、
この山小屋の主人が奥の部屋から出てきました。

「なんだい。こんな夜中に。他のお客さんに迷惑だぞ」
頭を掻きながら、寝起きの顔をクシャクシャにして言いました。
若い従業員が、私の話を伝えます。
すると、それまで眠たそうにしていた主人の顔つきが変わりました。
「ほう・・・」

そして談話室に入り、私とふたりの従業員を招き入れてから椅子に座ると主人が口を開きました。
「お客さん・・・そりゃあ、この山に彷徨う遭難者の霊を見たんだよ」
「まさかぁ」若い従業員のひとりが笑いながら主人の顔を見ました。

「お前達は、今年、初めてここへ来たアルバイトだから知らんだけの事だ。お前達だって、
2階の廊下の突き当たりにドアがあるのは知っているだろう」
「知ってますよ。でもあのドア、杭が打ってあって開かないですよね」
「当たり前だ。あのドアの向こうには何もない。壁の向こうには空間が広がっているだけだから、
ドアを開けて外に出ようとすれば、2階から下に落ちちまうよ」
「じゃあ、なんでそんなところに開かずのドアがあるんです?」
「昔、この山小屋の隣には、冬季に開放する無人小屋があったんだよ。
この小屋は、11月までの営業期間が過ぎれば、小屋仕舞いをして閉じてしまうからな。
だが、その冬季小屋も今から10年近く前に、老朽化が進んで雪の重さに耐え切れずに倒壊し、
そのまま取り壊しになったんだよ。もともと粗末な造りの小屋だったからな。
それ以来、ここには冬季小屋はないんだ」
「その冬季小屋と、2階の廊下の突き当たりにあるドアと何か関係があるんですか」
「冬季小屋があった頃、2階のあのドアの外には、冬季小屋に繋がる階段がついていたんだよ。
春になって小屋開きの準備をする時に、いちいち玄関から小屋の脇を回り込んで
冬季小屋に行くのが面倒だったからな。この小屋と冬季小屋を行き来するためにつけた階段だった。
だが、冬季小屋が取り壊しになった時に、ドアの外側の階段もいっしょに撤去した。
そのままじゃ危ないから、壁についたドアも杭打ちして開かないようにしたんだよ」
「じゃあ、このお客さんが見たっていう男は・・・」
「昔は、厳冬期に冬季小屋までたどり着きながら、力尽きて人知れず息を引き取った登山者も何人かおったよ。
そんな登山者の霊が彷徨っていても不思議はないだろう」

主人の話を聞いて、私は思わず唾を飲みました。
すると、廊下の外れのあのドアは、この世とあの世の境界になっているのでしょうか・・・。

「お客さん、今日は僕たちの部屋でいっしょに寝ましょうか・・・」
さっきまで呆れ顔で私を諭していた若い従業員のひとりが、真面目な顔で言いました。
もちろん、私に異存があるはずはありません。

「わしは先に寝るよ」
そう言って、寝癖のついた頭を掻きながら部屋に戻ろうとする主人の背中に向かって、
従業員のひとりが言いました。
「オヤジさん。そんな気味の悪いドアなんか、早く潰しちゃいましょうよ」

小屋の主人は、その言葉に振り向いて言いました。
「霊だって、たまには暖かい布団に包まれて眠りたい時もあるだろうよ」

そして、振り向いたままひとつ大きくあくびをして、私たち3人に向かって言葉を続けました。

「来るものは拒まず・・・。それが山小屋の掟だよ」


 
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出典元:山小屋の怪
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/junpei_s/kaidan-15.htm

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